金閣寺 - 石田彰.mp3
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[00:08.790]金閣寺[00:10.580]三島 由紀夫[00:14.380]不思議はそれからである。[00:17.080]何故ならこうした痛ましい経過の果てに、[00:20.750]漸くそれが私の目の前に美しく見えだしたのである。[00:26.180]美の不毛の不感の性質がそれに賦与されて、[00:30.640]乳房は私の目の前にありながら、[00:34.120]徐々にそれ自体の原理の裡に閉じこもった。[00:38.490]薔薇が薔薇の原理にとじこもるように。[00:43.310]私には美は遅く来る。[00:46.890]人よりも遅く、[00:49.170]人が美と官能とを同時に見出すところよりも、[00:53.390]遥かに後から来る。[00:56.870]みるみる乳房は全体との聯関を取戻し、[01:01.330]肉を乗り超え、[01:03.250]不感のしかし不朽の物質になり、[01:07.190]永遠に繋がるものになった。[01:11.220]私の言おうとしていることを察してもらいたい。[01:15.440]又そこに金閣が出現した。[01:18.660]というよりは、[01:20.240]乳房が金閣に変貌したのである。[01:24.900]私は初秋の宿直の、[01:27.990]台風に夜を思い出した、[01:32.040]例え月に照らされていても、[01:34.680]夜の金閣の内部には、[01:37.450]あの蔀の内側、[01:39.930]板唐戸の内側、[01:42.540]剥げた金箔捺しの天井の下には、[01:46.240]重い豪奢な闇が澱んでいた。[01:50.400]それは当然だった。[01:52.920]何故なら金閣そのものが、[01:55.920]丹念に構築され造型され虚無に他ならなかったから。[02:03.070]そのように、[02:04.540]目前の乳房も、[02:06.490]おもては明るく肉の耀きを放ってこそおれ、[02:11.020]内部は同じ闇でつなっていた。[02:14.740]その実質は、[02:16.810]同じ重い豪奢な闇なのであった。[02:22.390]私は決して認識に酔うていたのではない。[02:26.830]認識はむしろ踏み躙られ、[02:29.150]侮蔑されていた。[02:31.490]生や欲望は無論のこと![02:36.470]しかし 深い恍惚感は私を去らず、[02:40.980]しばらく痺れたように、[02:43.320]私はその露わな乳房と対座していた。[02:49.220]こうして又しても私は、[02:52.270]乳房を懐へ蔵う女の、[02:55.020]冷め果てた蔑みの眼差に会った。[02:59.510]私は暇を乞うた。[03:02.340]玄関まで送って来た女は、[03:05.090]私の後ろに音高くその格子戸を閉めた。[03:11.420]寺へ帰るまで、[03:13.260]なお私は恍惚の裡にあった。[03:17.710]心は乳房と金閣とが、[03:21.030]かわるがわる去来るした。[03:24.070]無力な幸福感が私を充ちたしていた。[03:30.430]しかし 風に騒ぐ黒い松林の彼方、[03:35.330]鹿苑寺の総門が見えて来たとき、[03:38.500]私の心は徐々に冷え、[03:41.270]無力は立ちまさり、[03:43.330]酔い心地は嫌悪に変わり、[03:46.100]何者へと知れぬ憎しみが募った。[03:51.560]「又もや私は人生から隔てられた!」[03:55.810]と独言した。[03:58.730]「又してもだ。金閣はどうして私を護ろうとする?[04:04.630]頼みもしないのに、[04:06.380]どうして私を人生から隔てようとする?[04:10.830]なるほど金閣は、[04:12.730]私を堕地獄から救っているのかも知れない。[04:16.780]そうすることによって金閣は私を、[04:20.730]地獄に堕ちた人間よりもっと悪い者、[04:24.990]誰よりも地獄の消息に通じた男にしてくれたのだ。[04:31.930]ほとんど呪詛に近い調子で、[04:34.620]私は金閣にむかって、[04:36.830]生まれ始めて次のように荒々しく呼びかけた。[04:42.680]「いつかきっとお前を支配してやる。[04:45.820]二度と私の邪魔をしに来ないように、[04:49.040]いつかは必ずお前を我が物にしてやるぞ」[04:54.860]声はうつろに深夜の鏡湖池に谺した。
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